岐阜県 関ケ原町
天下分け目は、通り道。
合戦の町を、道の歴史から眺める。
1600年、関ケ原の戦い。教科書で覚えたその場所を、いま新幹線で通っています。合戦の前にも、後にも、ここには人が行き交う理由がありました。
この町の話を読む約3〜4分で読む / 東海道新幹線沿線

写真:Saigen Jiro / CC0 1.0
年号を、地図に置いてみる
あの関ケ原を、今日も通る。
関ケ原と聞くと、東軍と西軍、徳川家康と石田三成。まず合戦を思い浮かべる人は多いはずです。でも、東海道新幹線で岐阜羽島と米原の間を移動するとき、私たちはその名前を、歴史の教科書から今の旅程へ引き戻しています。
関ケ原は、北の伊吹山地と、南の養老山地・鈴鹿山脈にはさまれた土地。山々の間に、東と西を結ぶ道が集まります。国道、名神高速道路、在来線、そして新幹線。町の地図には、時代の異なる交通の線が重なっています。
この町を少し面白くする見方は、1600年の一日から、時間を前後に広げることです。
図で、つながりをたどる
同じ土地に、三つの通り道。
- 01
古代・不破関
東山道の要所に、移動を押さえる関所。
- 02
江戸・関ケ原宿
中山道から、北国街道と伊勢街道へ。
- 03
いま・新幹線
岐阜羽島と米原の間。東西を結ぶ旅が続く。
合戦より、ずっと前に
通す場所に、止める仕組み。
8世紀初め、この地には不破関が置かれました。鈴鹿関、愛発関と並ぶ古代三関の一つ。東山道に接して施設がつくられ、西側の川と、三方の土塁に囲まれた関所でした。人が行き来する場所を押さえることには、それだけ大きな意味があったのです。
関所は外から来る人を防ぐもの、と思うかもしれません。ところが町の歴史民俗学習館は、不破関には、反乱を起こした者などが都のある畿内から東へ逃れるのを防ぐ役割があったと考えられる、と紹介しています。入ってくる側だけでなく、出ていく側にも目を向けた場所だったのです。
いまは座席に座ったまま通り抜ける土地に、かつては人の移動を止めるための備えがありました。
合戦の、その後も
武将の町から、旅人の町へ。
江戸時代には、関ケ原は中山道の宿場町として栄えます。現在のJR関ヶ原駅周辺にあった関ケ原宿は、北陸へ向かう北国街道と、伊勢へ向かう伊勢街道への分岐点でもありました。京と江戸を結ぶ旅の途中で、別の旅が枝分かれする町です。
町内の今須宿には、人や馬の引き継ぎを扱った問屋場の建物も残っています。ここで足を休め、荷物や人を次へつなぐ。合戦のあとにも、人の移動を支える暮らしが続いていました。
関所、宿場、鉄道。それぞれの道筋や役割は違っても、東西をつなぐ土地という性格は受け継がれています。新幹線の路線図も、その長い歴史に重なる一枚として見ることができます。
次は、地上の速さで
名前を知る町を、歩いてみる。
もし降りる日が来たら、まず岐阜関ケ原古戦場記念館の展望室へ。町を見渡してから陣跡へ向かうと、武将の名前と場所のつながりを、自分の目で確かめられます。旧中山道を歩くなら、今度は旅人の目線で町を見ることになるでしょう。
合戦を覚えていた町に、関所と宿場の顔が加わる。次に新幹線で通るときは、目的地の手前にあるこの町にも、旅の記憶が一つ増えているかもしれません。
この話の出典・写真について
- 岐阜県「不破の関跡」 — 山地にはさまれた交通の要所、現代の主要幹線、不破関の構造。
- 関ケ原町歴史民俗学習館「不破関とは」 — 8世紀初めの設置、古代三関、畿内から東への逃亡を防ぐ機能という学習館の説明。
- 関ケ原町歴史民俗学習館「関ケ原の歴史」 — 1600年の合戦、近世の街道交差、近現代の鉄道・道路が集まる町への変遷。
- 関ケ原観光ガイド「中山道関ケ原宿」 — 現在の駅周辺にあった宿場、北国街道と伊勢街道への分岐。
- 関ケ原観光ガイド「中山道を巡るコース」 — 今須宿問屋場の役割、約6kmの徒歩モデルコース。
- 岐阜関ケ原古戦場記念館「フロアマップ」 — 5階の展望室から町を一望できること。
- 関ケ原町「ふるさと納税について」 — 町公式の寄附窓口、古戦場や観光拠点整備を含む使い道。
- Saigen Jiro / CC0 1.0 — 石田三成陣跡から望む関ケ原 · 2017年10月1日 / Saigen Jiro / Wikimedia Commons / CC0 1.0。写真は現地の実景です。車窓からの見え方を保証するものではありません。
2026年10月11日確認。


